安齋です。 かなり、久しぶりになってしまいました。 余談でお話させてください。 私、実は3月の後半から肺炎でした。 肺炎てすごいきついですね...... 吸っても吐けないし、吐こうとすると咳き込んでしまって苦しい。 咳をしすぎて腹筋は筋肉痛になり、 喉はさけて出血していて、 声を失い(今は話せます!)、 身体が全てのエネジーを肺炎の治療につぎ込んでいるのがわかるくらいでした。 率直な感想は、生きた心地がしない、です。 そう思うと病棟に入院している方々のあの苦しさは想像を絶するものなのだなと身をもって5%ほど理解しました。 100%理解するときは、きっともっと症状が酷いときのみでしょうね。 いかに私がセラピストとしているときの傾聴がその場しのぎになっているかもわかった期間でもありました。 同時に自分の知識量の見直しとその情報の扱い方を見直すことも出来ました。 今回はそんなお話です。 【状況から予測できることは多数だけど、絞る為には】
われわれ、セラピストはいろんな疾患に対する基礎知識からどうなると悪化する改善するなどのもう一歩進んだ知識も持っています。
そしてそれは経験値が増えるほどに比例して知識量も膨大になります。
例えば、肩関節の屈曲制限がある患者さんを目の前にしたとき
新人が予測する制限因子と、
臨床5年目が予測するものと、
臨床10年目が予測するもの、
これらをそれぞれ比較したら当然ですが、違いますよね。
量も視点も統合の仕方も。
当然です。
持っている知識量とそれをもとにしてきた経験と臨床勘が異なるからです。
でも、ここで面白いのが
10年目の人の情報統合では効果がなかったけど
新人の情報統合で効果がかなり出た。
なんてこともあるんです。
どうしてでしょうか。
それは、知識量が多すぎるがゆえにいろんなことを予測しすぎてしまって、結果的に患者さんベースではなく知識ベースで考えてしまうという連鎖が生じるからです。
簡単に言えば、勘違いですね。
確かに新人からしたら10年目の評価・情報なんて神様のような感覚を抱きます。10年目の人が新人に指導するとなるとそうなるんです。
でも、患者さんと対面したときにどっちの方がより患者さんに寄り添えているかとしたら新人の方ができていたりします。
それは、持っている知識量が少ないのでどこかで補おうと必死になって患者さんのことをもっと理解しようとしているからです。
そして、ここだと疑いを持つことなく(悪い意味ではなく)、アプローチします。
その熱意が結果的に患者さんのモチベーションを挙げる役目になったりします。
【セラピストを守るのは情報、患者さんのためになるのは思いやり】
結局はここなんです。
どれだけ知識量が多くてもそれを上回る思いやりの精神がないとそのアプローチは効果を発揮しません。
知識という情報を持っているといろんなことが言えます。
同時に変な状況や自分が不利になった状況にも対応できます。
その代わり、患者さんへ向ける目は無くなります。
知識という情報がないと言える事は限定されます。
つまり自分が不利になったとき自分の事を自分で守れません。
その代わり、患者さんに向ける目は確実に暖かく優しいです。
少なくとも上から目線でいる新人はいません。
知識という鎧で自分を守りすぎて、
患者さん本人を見るということを忘れてしまっている。
そうならないためにも、
いかに目の前に集中できて持っている知識に依存しないか、
これが大切なんです。
私は常にそういう視点を持っていたい、と強く思っています。
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